浄土宗 伝授山 長応院


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第63回 写真家は何をしようとしているのか(住職写真論として)

ストレート写真などという言葉は最近死語化しつつあって、今や技法を歪曲し抽象化するばかりです。
創世記以来ダゲール、タルボットやニエプスなどは現実の光景をなんとかこの手でつかもうとしました。初歩的な発想であります。その間、西洋哲学は可視不可視、実体と認識の論議の中で心の認識に頼る実体像、現象としての光景、非実体像、不確実性を唱えました。一方東洋の仏教哲学はそれを当然のごとく眺めておりました。東洋で写真が発明されなかったのは、そもそも認識や感覚のうえでの実体をすでに感知し、非物質性を重要としていたからでしょう。
こうした東西の思潮のうえに写真は作る側も見る側も抽象論を語るか、具体論を語るかのまっぷたつに分かれてきたようです。作品上も同様で背後の文脈に頼るか、画像上の物に語らせるかです。
もしもその文脈に頼らせるものであるならば、その写真の役目はその糸口でしかなく作品と呼ばれる重みを感じませんし多様化してしまう危険があります。どうもこのような写真が横行しているような気がいたします。私はそのあり方には写真の理想を一つの社会現象として捉えるのみで美学的に魅力を写真のうえに感じません。むしろ、ストレート写真と言われてきたある種の正統的な態度に気持ちを寄せます。
それは、ここまで来た現代写真の概念を培った現代思想哲学や現代宗教思想も含みつつ虚像であれ物像の共通概念の柱と語彙を軸に正面から語る態度の方が写真をよりふくよかにし、写真の特質からして正統を思うからです。それは先の写真創世記の方々に敬意をもつものとも思います。
目で物を追えば物に取り憑かれてシャッターを切るのでしょうが、お分かりの通り像の上では二次元上の異なる物として現れる事になります。その二つの物の間に空体として言葉や概念、観念がつきまといます。それが写真家というのであれば誠に曖昧に危険であります。何故なら所詮空体であるからです。勝手に意味を封じ込めれば写真は写真でなくなるでしょう。共有概念としての頼りに傾けば写真は一枚の紙と化します。
個性を(Individuality, Identity, Personality)尊重しすぎるが為に壊れた美術。無個性において在るべきものを凝視しなければならないと思います。縁起の現象に立ち上がるのは尊重された個性では及ばず語ることは出来ぬものだと思うのです。「植物図鑑」とは正に。嗚呼、中平卓馬よ。
「無個性又は非個性ということ」
縁起無常の中に個性の美意識は有効か?
自己の母体に何故を問う西洋の哲学は、当然のごとく自己存在から滲み出る美意識を愛しました。自己表現という言葉に美術の輝かしさを与え、文化往来の中に見る現代の日本の美術の様相は、政治的にも影響を受けて今日に至ります。個人の感情、観念や意図、個人を組成する帰着点は強いゴーマニズムにあるかもしれません。または、安易な自己執着でありましょう。私にはこれが単なる思考の表皮にしか見えません。言い換えれば、思考の現象であります。それらを含めて、連鎖や繋がりの中で物も精神もあっけなく無常の中に溶け込んでしまうのです。それらには、何の意味も持たない無機質な現象であります。そうであるならば、個人の尊重だのと言って個性を露わにする事が美の術だと思って行動するのは全く寂しいことです。
例え命の尊さを語ったところで、その現象の中に埋もれて消えるだけであります。欲の執着の一雫の生命です。もしもそこに起点を置くのであれば、美術はその輪廻のスパイラルから解脱することは出来ないでしょう。
表現上、無個性になりきることが理念(世の理)に合っていることだろうと思います。現代はそこをもう一回再考しなければ進まないでしょう。
ただし、淡々とした無常の理にもし儚さを覚えるとしたら仏界の慈愛に寄り添っている、と言うことでしょうか。唯一そう思うのです。「一切唯心造」です。(万物の現象、存在は心よりつくれたり、です。)

自己の妄想、時間、歴史の妄想、ポエジーの妄想。情念や概念などと言った無実体なヒトの色気は空であり、一度泳ぎ始めたらゴールもない。漂う事で楽しむというならばエンターテイメント、それでもいいなら良いのですが、写真の無機質な即物性(写ってしまう事)は、それで無価値のようであるが無残にも事実なのでしょう。それは、かつてタルボットが「自然の鉛筆」を作った念に沿う想いかもしれません。

人としての行動としての写真、又は美術がいかなるものとして在るのか。
再考余地ありです。

2017年3月15日