浄土宗 伝授山 長応院


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第62回 無常ということの先に

物は消える。先の大震災で覚えたことはそういう当たり前の事をあらためて知ったのかもしれません。永遠という言葉に霞を覚えたかもしれません。人間はその体も物で、お金も物です。津波はその体もお金も家も物という物を全て海の果てに押し流し藻屑と消えたのでした。物社会に依存する私たちは不安を覚えながらも答えを見つけられず今もなおその社会を継続しています。不思議な事の一つに原発に対しての矛盾でした。それは物社会の核となるエネルギーの問題の果ての知恵だったにもかかわらず、それが崩壊し自然界(人間も含めて)を傷つけ、諦めずに又は歴史に学習せず相変わらず物社会に依存し続ける姿でした。
人間は元来無一物でこの世に生まれ無一物で去ります。人の一生は生苦のいっときです。その中で物への社会にまみれるのでしょうが、どこかで私たちは心と物の調和で成していると分かりつつ物への依存に執着していきます。
さて私たちは、その警訓を大切に心への回帰を促していきたいものです。無常の上に生きる事にどんな知恵が必要なのか、しっかりと仏教から学びたいところです。
利己主義に終活、墓・葬儀・戒名・寺いらない、形式いやだ。墓じまい等。こうして寺離れの進む今の世に、あえて私はいつでも帰ってきなさいと呼びかけるのであります。寺とは縁の道理を学び、命を考え、気づきを養うところです。どうぞかかりつけのお寺として自身の供養、布施の心を育てていただければと常に思っているのです。そういうことがどういうことか、必要とされなければ経済的にもさることながら寺は消えていくことでしょう。それも無常の内ですか。

2017年2月14日