浄土宗 伝授山 長応院


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第61回 気づきの輪

人間死んじゃえば終わりさ、や、信仰なんぞより生活の方が重要だから、俺は無神論だから、などのたぐいの言葉はいつも聞いていて寂しい響きがあります。仏ほっとけ的な自己勝手の響きがあります。勿論、当山の檀信徒さまにあってはいつもご信心の深きことと拝察いたしますが、世間ではこう言った思潮が漂っております。宗教に対しての無知無明、命の気づき、自身の存在、他に思いやる布施の心、そして世の道理、こう言ったものが整理整頓できぬ自分過剰意識(自分の命は自分の物というような)に妨げられた精神や心の拠り所の不必要を言う訳です。身体的霊性などもってのほかぐらいの話です。物主義の末路です。過去の日本の歴史から、特に戦後もたらした欧米型過剰資本主義の垢が妙な物と金への依存と競争を増し、人の生活をも蝕む一つの波を形成したのかもしれません。その結果、その依存症が後遺症となって今の淀みを生んだのかもしれません。古く神仏を信じた時代の人々の生活が愛おしい感じがいたします。浄土宗が開宗されたのは鎌倉時代。仏教が一般市民に流通されてどれだけ助けられたことか。今やその有難きの浮木さえも見えない時代です。
未だに末法の世であると言いますが、ことの真を求めるが如く気づきを感じる方はより磨きをかけて周りの人々にその気づきの共感を和合して共生きの文化の輪を広げていただきたいと願っています。
あなたがいるから私がいる、私がいるからあなたが存在する、という自他平等利益の精神が仏教の慈悲の根本であります。
気持ちの修練には時間がかかると思いますが、一つ一つ善根を積み重ねていきましょう。生活が変わります。幸福度が変わります。正見、正思惟をつなげることです。

2016年12月23日