浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第60回 写真行動の根拠

今や現象として慣れ親しんでいる写真文化かもしれませんが、そもそも人間の残すと言う本能がもたらした系譜から考えたら写真は思想や美学をよそに必然としてその術はあるべくしてあるのでしょう。性的本能と同様です。このことに何美しさがあるのでしょうか。
残そうと記録したはずなのに何か違う。現実とは違う。記録者の体験は第三者には体験できぬものだから、やはりその画像から得られる情報を頼りに見手の感性から何かを受け取るのでしょうが、それでは記録者の本意は伝わっていないことになります。このようなことに写真は嘘呼ばわりされたりもしますが、当然でもあります。本当の事は伝わらないのであります。思い通りにはならないのが理であります。だから、それを前提にどう写ったかを客観的に共有することにすると視覚的な対話になるのでしょう。第一残そうとして残されるのでしょうか。モノは消滅します。記憶も消滅します。ただ間接的にモノと記憶の対話が知的な感性を呼び起こします。一時的なものかもしれません。そうだとすると残す行為は儚いものでしょう。消滅しゆくモノに頼るのだから。無常のうちに本能だけが消費されていくのでしょうか。人間そのもがそういうものでしょう。命が尊いと言う昇華された言葉は嫌いですが、しかし命そのものが無常のうちに消え行く過程にすぎません。結局、写真もその行為も儚く無常のうちに収まるのです。
それでは意味が無いじゃないか、とも言えるのでしょうが、命の存在に出くわしたのだから写真に会えたのです。時代が変わっていたら違った行為に身を寄せたでしょう。縁起です。だから時の場の頂き物は大切にしたいと思うのです。そう思って初めて美しさを呼び起こすのかもしれません。
思うに、縁に生まれ縁に出会い縁に消滅していくのです。これが道理です。この上に立って(X軸としましょう)出会った写真術に深きを知る事は命の存在の智慧です。質です。(これをY軸としましょう)このXとY軸の相和する円相がその人の人生の色です。だとしてこれを個性と言ってもいいのではないでしょうか。それを体感したいが為に写真行為があるものとも言えます。
さて、そこでこのような解釈で見る限り無常だから生きることができると構えた場合、写真文脈の色気に漂う事に終始して楽しむか、そのXY軸の空点を見出すがゆえにその術を手立てとして生きるかの二つに岐路があるでしょうが、私は後者が好ましく思います。何故か、その空点を覚えたいとするからでしょう。きっと。チューダ・パンタカの話の掃除で悟った者のように。まさに写真はその箒の如くです。だから、勝手な感情表現や自己表現と高笑いしているだけではどうも私の向きではありません。勝手は不道理です。個の扱い方がその歴史にあるように自己なぞおぼろげで不確定です。自己を表現の根拠として表出することを美術と解釈するのは疑問です。そのことより凡夫にとって愚かさを気づく事が一番賢いのかもしれません。だからその術を生易しく見ることが出来ないのです。真摯に付き合いたいのです。止まって淀むより前進展開していきたいのです。勿論、写真だけの話ではありませんが、術がかわってもこのような向きの表現者は同志の念を抱かざるを得ません。同入和合として。これが空蓮房の念です。
自他同一の現象学とも言える写真論は縁起無常論と相まって現実と存在の問いを常に広大無辺に投げかけてくるのです。遊戯に戯れる余地ではないかもしれませんね。特に写真はその向きにおいて記憶の記号論に遊ぶのみならずより大きな問いを広げているから私には魅力を感じるのでしょうし、これが写真行動の根拠となっているのだと思っています。 そして、私たちは生きています。何故なら縁を頂いてある命です。勝手な思考で悟ろうと思っては悟れないでしょう。第一、悟りは証明できるでしょうか。そのことより亡者に失礼のないように生きたいと思っています。これが私の浄土論かもしれません。言い換えれば、亡者に失礼のないように写真をする事、これが唯一エゴイズムに執着する自我から脱却できる思いかもしれません。

2016年12月22日