第59回 なぜ死が怖いと思うのか、死を超える事
死は平等にあって事実としてあるのにもかかわらず何故恐れるのでしょう。
死ねばやりたい事が出来なくなる、周囲に迷惑がかかる、自分の存在をなくすのが寂しい、自分は永遠と思っているのに消滅するのは悲しい、美味しいものが食べられなくなる、恋する人と別れたくない、痛い思いがする、欲しいものが手に入らなくなる、世界が終わる、などなど。これは全て欲が原因です。
さて、自ら死にたい人は、苦しい、痛い、辛い、価値がない、認められない、道が見つからない、自分が嫌だ、思うようにいかない、などなど。これも全て欲の回し者です。
ではどうしたらいいのか、そう思うでしょう。簡単です。その欲のとらわれから解脱すればいいのです。これが仏教の原点です。ゆえに勉強したり瞑想修行したり、座禅したり念仏したりするわけです。こうして2500年も経っています。諸々の僧が答えをだして展開してきました。
自力や他力などとも言いますが、その方法は様々です。僧はそれひたすらに行じていればいいのでしょうが、一般大衆は生活があるためにそればかりしてられないとおっしゃるでしょう。南方仏教のように僧院にこもる僧に祈るもしかり、大乗仏教のように大衆と共に行動していくのもいいでしょうが、実際は欲体である人間は実践効果が欲しいところでしょう。
祈れば病気が治るとか、お金が入るとかのたぐいは無論として、心の安定に少しでも効果があれば確かに幸いです。これもただ祈ってすぐに得られるもでもないでしょうが、身体感覚の薫習に長い目をかければそれぞれ異なるとも穏やかさに寄与すると思います。
南方系の上座仏教でも(テーラワーダ)呼吸法や気づきの瞑想法を実践公開していますし、座禅もお馴染みでしょう。そのほかの荒行は生活から離れていきますが、注視したいのは念仏行です。日常生活の中に出来る易行だからです。
極楽往生出来るという自由の道へ弥陀の本願に頼って念仏する。愚鈍の気づきを持って全ての事象を有り難く頂戴する。死をしっかりと受け止める。生まれて有り難き、病にあっても有り難き、老いても有り難き、そして死に至っても有り難きと身に覚えていくことに雑音が消えていくことでしょう。
ポイントは、人生はコントロールできない、と言う事を覚える事です。天災や事故などもそうですが、いつどこで何が起きるかは自分の意図でどうにもなりません。意のままに生きると熱望するのは道理に反しています。ゆだねる事です。言い方を変えれば、悟ろうという意思で悟れません、自然法爾と言うように他者に寄り添い、心ゆだねる事、それが弥陀の本願の物語なのだろうと思います。
2016年11月23日