浄土宗 伝授山 長応院


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第58回 今、なぜ仏教なのか

3.11以降何が起きたのでしょうか。津波、物という物は海に流され、人も物として、紙幣は紙として消えて行きました。ひたすら蓄えた財産も消滅し、物に対しての依存に不安を覚えました。福島の原発災害に於いては、過信していた経済助長の為のエネルギーの国策に不安を覚え、日頃の家電や生産工場らの物の成長に必要なエネルギー供給を優先した矛先の見えない現状は経済発展が何を生むのかに対する疑問と不安を与えました。(利便性だけか。国の成長とは何だ。どこへ向かうのか。)
つまり当たり前の安穏と見えた生活の原点を省みる起点を残したのでしょう。もう何が起きても驚かないよ、などと言う方も多くなりました。
仏教は変わらずいい続けます。「すべての関係は移りゆくものだと。思うようには決してならないと」。こうした不安は今起きた訳ではありません、安穏とした生活の中にもあったはずです。にもかかわらず、自己の執着に気づきがなかったのでしょう。関係し合って成立している事象としての社会に及ばずして自己の勝手が軸をなしていたのかもしれません。 勝手が通る、欲をはらすための社会ではなく、またその発展ための社会ではありません。仏教は戒めます。そうではない事を。事の道理を得て真の自由を願って生きる事を。
心の時代、今になって言い出した言葉でもありませんが、欲をはらす為には親をも殺す時代に仏教の戒律が何を示したかったのかがあらためて覚える昨今です、しからば、教育や社会に根の張った精神教育を必要と感じます。
他国の大統領が変わり経済がうろたえても本来持つ智慧をさらに見出し、過去の歴史を踏まえながら自国のアイデンティティーをしっかり見直すべき時代なのかもしれません。覚悟と共にいい機会だと思うのです。
(グローバリズムもポピュリズムも、右左もいいのです。ただ、改憲論さえも出てきた昨今ですから、時合って民主主義的な論議がこのような話が従属的な我が国にとって起こるべきだと思うのです。当然ながら天災や高齢者問題、福祉、異常犯罪、人権など関係し合いながらもその生きる事の命の根底論です。)

2016年11月13日