浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第57回 自由と幸せ

自由と幸せはニアイコールであります。悟りを真の自由の境地と言うならば、それを得たものは幸せを感じるのでしょうか。日常生活ではほのかな幸せだってあるではないか、と思いますが継続が難しいのであります。真の幸せを得たら自由と言うことになるのでしょうか。
悟りは欲から解脱した境地というのならば、自由を得たとか幸せを得たとかいう会得の感情すらないのだと思います。欲の世界から見た苦からの開放感という欲望にすぎません。
悟りは悟る何かがあってこそ使われる言葉でしょう。一般的にはこの世の道理です。どのように構築されているかを見識し苦楽の輪廻から離れられるかです。悟りが本当に自由か幸せかは定かではありません。悟りは悟りです。
世は思うようにならない、何故なら全ての事象は縁起として現れ、無常として時をつかめない、と釈尊は言います。思うようにしたいは人間の感情で都合に合わせたいという勝手です。それは、世の道理に反しているということです。事故に遭う、これにはそれなりの至る因果上の出来事であり、病気に遭うも同じことで、都合に合わないと悪として判断され、苦しみを自ら作り出します。縁起の理論上全ては感情や欲とは無関係に起きています。仕方がない、と片付けられぬ感情がかえって苦しみを覚えることになってしまいます。悔しいとか、何故自分だけに、不幸だとか。
悟りを得たらならこのような苦しみはなくなるのでしょうか。
仏教では涅槃と入滅を理論上区別します。悟った時点では、涅槃であり肉体が滅した(死ぬ)時点は、入滅と表しています。しかしながらこれは大きな議論になっていきます。生きて悟れるのか、死んで悟るのかということです。釈迦は生きて悟られたと言うことです。ただ以後これを検証して大乗に流れていくのです。このことは、即身成仏の考え方や、極楽往生の考え方に至ります。私たちは生きているこの生身にあって先の自由と幸せを得たい、感じたいと思うのが通常でしょう。しかし、それをもが欲なのかもしれません。
浄土教における往生論はこうした論議の中、その悟りを往生(苦しみのない極楽に生まれる)という輪廻から一直線に方向を定めました。生きる内は仕方ないでも極楽に生まれることを願ってこの世を生きることが幸せと自由の前提だと。それで安心が保たれようと。
仕方のないこと、の言葉には諦めがありそうですが、現象を現象のままに受け止めて感情や善悪の判断の入らない、ある意味では正当な受け止め方でないでしょうか。そのような感覚の種がいつかは、自由とか幸せという感覚に至らせて頂くのかもしれません。

2016年11月11日