浄土宗 伝授山 長応院


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第56回 時の呪縛

ブッダの「去りゆくもの、来るもの」(去来)の表現には事物は常に移りゆくものとしてとどまるものはない。哲学者、大森荘蔵の「時は流れず」には時間の概念のとらわれで事物の存在を語ろうとも実体は無い。ようするに私たちは、時間は流れていくものでも目の前の事物は固定的だと思う節がありますし、昨日は帰ってこないけど明日が来ると思っています。 仏教では本来、時間の概念がありません。全ては移り変わっている中の一点にしか実体を(自分も)見る事はできないのにもかかわらず、一定した実体と自分があると思っている事でしょう。掴む事さえできない今に思い煩う事は普通で無いとしております。これが時の呪縛です。昨日は今であり明日を思えば今であり、言う所の現在過去未来が無いのです。時間の方便で語られるとして、本来、今という言葉さえ不可思議です。今を捕まえる事はできましょうか。昨日のリンゴと今日のリンゴは違います。しかし、私たちはリンゴという固定概念で常住しています。
写真家がいくら1/2000秒でシャッターを切ろうとも、また時間を止めると豪語してもそれは、止めた事にはなりません。意はイメージにすることに注がれます。そのイメージが他者の網膜に映り感覚に何かを起こす一連の事象にあります。凍結された、を前提に理解されるものではありません。
共に語られる事は実体、実存、認識、存在といった関連するものです。仏教では全て六根から統合されるこころの出来事なのです。確固たる自我に根拠は無いというのです。また、全ては虚像の中で生死を来り返しているだけの事だというのです。寂しいかな、刹那な思いでしょうが、そこが起点となりいささかクールな縁起論や無常論を叩き出すのです。無感情、非情でしょうか?
事物の感情的な判断は直結しておりません。例えば、善悪をつける前に事象は起きていますし、都合に合わせて判断します。源は我欲です。それは、未知なもので過信であったり無知無明であったり根拠は定かでありません。
示す事と示される事の狭間にある見識(見方、捉え方)に智慧が必要だという事。それは、いかに勉強修行して高めるか、またはとことん敬意にすがって判断をよそにするかでしょう。
個の扱いに東西の源流があるかもしれませんが、こうした心得が人間の到達すべき智慧だと思っています。

2016年11月10日