浄土宗 伝授山 長応院


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第55回 自己陶酔型の有様

最近はスマホを持って路上をウロウロする人が目立ちます。ゲームだろうが音楽だろうが、又はメールだの情報に過多する様相が目につきます。このことだけでもなく、事件事故の内容も自己中心的な原因が行動をもたらしている事が多くなったような気がします。
インターネットが随分と社会の様相を変えました。情報過多と言われるように、ちょっと前まではそれで暮らしていたものが便利になったはいいけれど、欲は欲を生み過剰なまでに便利になって追いつくように人は処理をしていかねばならぬ状況です。利便向上とその背景は何を起点に発展しているのでしょうか。文化発展議論をよそに目の前の利潤に、又は欲に輪廻するのは資本主義も盲点です。そう言った主義体制の中における人間の生活は、ともするとしっかりとしない受体性を持った自己を生みます。
そういう社会にあって人間関係もSNSなどでつながっている事で安心を錯覚し、妄想の中で幸せに陶酔する人も増えました。リア充という言葉にもあるように、今や現実世界に立脚した生活の充実感より仮想空間の充実さを覚えているかの様相です。この事は、自己存在の起点をどのようにおいているのでしょうか。
自己陶酔、自己中、勝手、わがまま、他との断絶、、二足歩行のホモサピエンスは共生社会にその歴史を育んできました。共に在る事象、共存は現実ですから逃げたくても逃げる事はできません。にも関わらず、逃げるように自己に陶酔し妄想し安住を求める姿は、単に自己逃避ならぬ勝手な自己陶酔だと思うのです。
この事が示す問題は、自己の確証さえままならぬものなのに自己の虚像に過信していく妄想信者になりすましている事です。すれば、善悪の判断以前にある本当の事を見ずしてその善悪の判断に疲れ戯れた結果ではないかと憶測します。つまり、我々が凡夫という由縁は欲体から欲せられる感情的な判別に直感して左右されがちな愚かさを持ち、それに気づかない体という事です。
では、その本当の事とはなんでしょうか。現前の事実、先の共生社会という概念にもあるようにこの場この時、この状況が、因縁生起(縁起)として現れ、関係しあい繋がれて止まる事なく変化している現象しているにすぎないという事です。自分という肉体もそうですし、問題は六感から生じる現実感に上辺の陶酔するのではなくそこの源を清浄にして探る信念があるかないかかもしれません。
自己陶酔は勝手な欲の結果において共生社会から外れ自己妄想に漂い核心に触れる事なく埋没するでしょう。しいては、危機として何かの崩壊を予見します。現実を現実たらしめるその理と正見する智慧に精進せねばならぬでしょう。自己は他者において存在するという観点からすれば自己中心的陶酔型は架空の自己に過信していると言わざるを得ません。だとすれば、共生という概念さえも崩れてしまう事になります。個人主義を語るのであればそういった事を踏まえての個人のあり方という事でしょう。

2016年10月1日