浄土宗 伝授山 長応院


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第54回 個人主義的な動勢

家社会の変化、家を守ることと継承、核家族社会、夫婦別姓、封建主義から戦後民主主義ないし資本消費社会への解放と模擬自由の獲得、責任の所在、欧米型個人主義、グローバル社会による慣習の崩壊、平和の中の自己管理危機、経済優先主義、自分さえよければいい、所詮あかの他人、親子は別物。
まあ、縁起というつながりと共生を説く仏教からしてさみしくなる状況下であります。
最近では、お墓問題、葬式や法事などの簡素化、具体的には、墓じまいやら、継ぐことを嫌がるとか、お寺にとっては難題ですがそれも世の流れと思ってもどうも仏教の理から外れてきてしまっているような気がいたします。
仏教での個人観は、あくまでも自他共生に立っての個人であり、他なき自己はないのです。がしかし、現代の個人はまことに個そのものという過信に流れているようです。これでは仏教が成立しません。自者の勝手やわがままが通るという過信は、思うようにはならない、という仏教の理に反しているだけでなく、縁起のつながりの哲理に矛盾するからです。
制度はシステムを変えることですからその中で縁起を思慮すればいいのですが、問題は、そのシステムの動向が縁起から外れていく動静が怖いのです。
例えばお墓の問題でも、先祖累代の形式は江戸期の政策です。檀家制度を形成して町民管理に当たっていたわけです。個人墓ではスペースの問題もありました。そこへ仏教の教えになぞられてうまいこと生活に飲み込まれていきました。現代は、確かにこうした制度が世の変化の内として変わっていっても当然なのですが、個人墓や一世代墓などのニーズ、直葬、戒名いらない葬(仏式でやる意味がない)、無宗教葬(宗教の定義の甘さ)などなど。そこに何か様相が変わってきたなと感じてしまいます。形やシステムも無常ですから、変化をしても不思議ではありませんが、ただ、矛先が勝手を通すための動きに少々戸惑うのです。縁起、つながり、無常と生死観に培われてきた仏教の歴史は今、少々即物的な乾いた社会に警告を発せねばならないようです。
寺のことはどうも年寄りに任せきりという若い世代こそ、肝に命じなければならないことでしょう。

2016年9月27日