浄土宗 伝授山 長応院


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第53回 ちょっとした愚痴です

私住職は浄土宗のこの長応院という寺に生まれ育ちました。気がついた時には既に得度して、多少の反抗期があったにせよ今や先代から受け継いで住職です。言われるように、出家の本懐を遂げるべくしてなったわけでもありません。現時代、日本仏教がもっと真摯にならねばならない、そうは確かに感じておりますが、何故、浄土宗なのか、何故に禅とか密教でなかったのか、そうも思ったことはあります。浄土宗だから念仏を説くのが当たり前でしょうが、私にはそれがそれだけでは納得いきませんでした。米国留学時代は美術青年でしたからまあ、禅にこだわった時もありましたし、ぼんやり仏教は刺激的だとうことで概念的に関わった時代もありました。寺に落ち着いて約20年、今思うことは、頭で理解をしようとしていた仏教が崩れていくことでした。残ったのは、縁と気づき、そして増幅です。いい年になると、考えるのは、しがみつく物語、なんです。苦しさとか、やるせなさを感じた時にいつからかあったその現前の、極楽物語です。念仏で救われるという単純なものが、培ってきた仏教の中にあったという事です。法然は、こういったものをわきまえて自ら悟る仏教から救われる仏教に改革した事が大きな問題だとわかってきたのです。このことからして現状の檀家制度や形骸化された仏教や世襲的な寺院のあり方とか日本仏教を改革するところは満載で、現に危機を感じる若い世代の僧侶は行動に出ています。世の流れとは言いながら布施収入が減って護持が難しくなる中、法を説く立場は、寺がサービス業ではないにしろ、世のニーズや動向に向き合いながら方便を変化させなくてはなりません。今や仏教と言ってもこの日本では、多様な宗派が学べます。念仏や禅、密教の他に唯識だって、テーラワーダ仏教だって。広義に渡って学べる環境にあって、ちょっと気づけば贅沢なものです。ただし、思うのは私が縁にあって今、念仏を称えることがどこかで宿命と思いながらもその広義の中でみなさんに現代的に説くことが大事か思っております。寺、住職、僧侶その状態は一様ではありません。と言って世間の状態も一様ではなく、同対的に批判し合うことよりも発展的に日本仏教のあり方を探ろうではありませんか。どちらにも問題があり、未来があります。例えば、布施のことにしてもこの資本主義の中で対価的な考え方をするのは安易です。ですが、その本質を思考の中に入れていくのは世間の問題でもあります。つまり、相互の狭間の関係です。信頼と理解は流動的です。大乗仏教は、皆で極意に到ろうという土台に立っています。先導役の僧侶は勿論緊張感を持って臨まなければならないでしょう。風習にあぐらをかいていてもどうか、と思えど、それはそれで、良い導きになれば良いのかもしれません。が、時代は少々、慣習の形骸化に疑いの目を持ってきています。余はアップデートしながらの仏教です。仏教も無常です。仏教は生き方、死に方を身につける教えです。若い世代はどうも宗教というとすぐカルトな想像をして意に反した洗脳とかつきまといがちですし、多様化する価値観の上に自己依存しがちですが、(自分の意とはなんぞや、そんなに確固たる自己はあるのか)真摯なつきあいはやがて信仰につながり救われる身となって得ることになると思います。アマゾンの坊さん宅急便もそうですが、ニーズはある、又、日本仏教の現状からして危機を感じている僧侶はそれを機会、縁と捉えている、一方、仏教界は布施の意義観点からどうかとおっしゃる、どっちもじゃないですか。せめぎ合いでしょうし、この点が、今の日本仏教の問題点なのです。仏教が退廃した、いや、世の中がわかっていない、そういうことじゃないのです。大乗の観点からして、「共に」ということは、コトバだけではなく、行動と信頼によって関係を作ると思います。相互に求めあいながら作るのです。それが文明文化ではないでしょうか。社会の中に僧がいるのか、雲の上に僧がいるのか、それは、ないでしょう。大乗は、社会の中に共にあって船を漕ぐのです。漕ぎ方を私たち僧侶はお教えするのです。僧だってあの世の行って帰ってきてお教えするわけではないのです、というとある宗派は違うとおっしゃるでしょうが、一般大衆的には釈迦の方便と捉えれば仏教の根本哲学とそれに応じた物語にはさほど大差を感じるものでもないでしょう。
ご縁あるところからまず踏み出してみましょう。
先日寺に新興宗教系の信者の方が訪問されて「私たちは宇宙のどこから来たか不思議じゃありませんか、宇宙を作り出した神様を信じたいのですがどう思われますか」と尋ねてきました。「今あなたがそのお話しをされていながら地に立っている靴の下に小さな命が潰されています、そのことの方が私には重要なのです」とお答えしました。
日頃の生活の中でふと立ち止まり精査、整理整頓していくと通底する何かに気づくかもしれませんし、また、立ち止まる事もままならないのであれば、念仏、禅など形にすがるもいいでしょう。仏教はクールです。身体的にも思考的にも多岐にわたり染み渡る事でしょう。ご縁を増幅してみてください。

どうぞよろしくおつきあいくださいませ。

2016年9月22日