浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第52回 ご先祖様は大切、でも仏教は先祖崇拝教ではない

皆さんはお墓にお参りすることは良きこととしてそうするように、亡き仏や代々の亡き人への想いの中に手をあわせることは、当たり前に仏教の一番大切なことと受け止めている方が多いとおもいます。確かに、それは古来習慣的に素晴らしいことではありますが、一つだけ申し上げたいことがあります。
まず、何故亡き人を仏様と呼ぶのか、です。お葬式に際して何故亡骸に手を合わすのか、です。哀悼の意か祈りの意か。他者へか自分へか。何れにしても仏教の象徴的な姿です。仏教ではこの自他の共鳴関係が大切でそれを超越した仏、如来仏に生かされている苦楽を超えた安穏とした静寂を感じる時を極意とします。その時に合掌礼拝が適しているとおもいます。とすると、一方的な亡者への意だけではなく、自分へとも跳ね返ってくるわけです。墓参りは亡者との縁を感じ取る行為であり、自他共に共鳴感を覚え、自ずから「南無阿弥陀仏」と口からこぼれ出すことでしょう。生死とはどういうことか、今ある我が身と亡者から知らせてくれるメッセージをどう覚えるかです。そこには信心や信仰がなければ単なる行為で終わってします。そうした自他の交流の底辺にはそうした気づきがなければ本当の墓参りにはならないでしょう。つまりは、その気づきを習得するために私たちは、日頃の仏教への精進が必要となってくるわけです。智慧です。ですから、墓参りを形式的にするだけではなく、そうした真摯にその智慧に向けて精進する証を源にしていただきたくまた、いい機会にしてもらいたいと思います。 縁を説く仏教はそのつながりの中で先祖を敬う気持ちを大切にしますが、それを一部として、自他を包括する何か、本当の意味での仏様を感じとることが大切です。そこまでして本当のお墓参りがなされるのが理想でしょう。
墓参りをして「ああ気持ちがいい」とおっしゃる方がおりますが、きっと素直にその大きな仏様を感じ取ったのでしょうね。宗教、仏教でもその形に自他の関係か二つのベクトルに強さを傾けると聞きます。大乗、小乗もそうですが、感性から信心を得るタイプと、概念から信心を得るタイプがありそうです。何れにしてもお釈迦さまは今も静かに座しているのでしょうなあ。

2016年9月21日