浄土宗 伝授山 長応院


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第51回 救われたいと思う事

誰にでもある事でしょう。窮地に立った時、苦しみの境地に立った時。そこには、精神的な苦しみ、物理的な苦しみなどあると思います。そもそも苦しみはどこから生まれるのか、生に対してのちょっとした拒絶反応です。そもそも釈尊はその苦にたって仏教を悟られたのです。いかにその精査され本質的な苦から解脱できるかの教えです。言葉は難しいですが、悟りという単純な超越への憧れ、とは少々異なります。何故、何故という概念的な問答に遊ぶ事ではなく、真摯に、生きる事、死ぬ事をクールに対峙した宗教の一つでしょう。
私たちの歴史は一個体の縁のつながりでしょう。縁とは、偶然ではなくて必然です。万物の出会いは、自分の生命の誕生から始まる。親の、ある精子とある卵子の出会いでもあるでしょうし誰も選べません。そうやって、自己らしきものと戦って、体は消滅して、魂としてまた縁をつなげていく。こうやって考えると、私が寺に生まれてしまったこと、皆さんがそこに生まれた事、そして今こうしていること、なぜ昔でなくこの時代なのかとか、全てが、縁として必然の賜物として頂戴している事象でしょう。確証的な自己に支配される自己なぞは信じられないでしょう。言い方を変えれば、物語として生きて、死後も物語の中に生きて行くという仏教の中の浄土観の存在の重要さがやっとわかってきました。歴史とはそういう土台にあるような気がしています。人間一生で色々なことができそうで、そうでないですね。総体的に単純に一個体の物語のようなものです。 その人の記憶は他者が分かり合えるものでもないし、共有する何かをたどる気づきが唯一の想いなのでしょうね。気づきは、本当に、大切なキーワードです。
結局残るものは、真に救われる、たい、気づき、そのものだと思います。自己の解体と共に現れるもの、それです。それぞれの記憶の中の心のボキャブラリーの中で共有する何かが大切なのです。それが歴史を作り、社会を構築していくものだと思います。
救われるという気づきに気づくかです。

2016年9月20日