浄土宗 伝授山 長応院


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第50回 わかっちゃいるけどやめられない

昔の植木等さんの歌にありましたね。植木さんはお寺に生まれたそうですが、何か仏教に精通したものがありそうです。まさに私たち凡夫の歌です。
死んで分かる事、生きてみなければ分からない事、論じるに論じられない部分がありましょう。馬鹿は死ななきゃなおらない、なぞはきつい言い方かもしれませんが、我々の愚かさは、分かっているようで気づきにくいものです。
私たち生命体には根本的な欲があります。生きる事自体に生命欲に立っています。それに乗じながら末端まで、欲しいものは得たい、思うようにしたい、という具体的な感情までいたります。釈尊は苦の考察から、すべては思うようにはならない、と断言しております。この差異は何をあらわすのでしょうか。 苦は欲から生まれると仏教では言うものの、敵対視しているわけでもありません。苦と楽は相対的なものでもありますし、欲あるから生きられるのかもしれません。と言っても私は少なくとも自分の為に生きているという感覚がないような気がします。つまり、自分の欲の解消の為に生きるという事であれば、寂しいし、解脱を思慮する僧侶の考える事ではないでしょう。
大欲小欲を静観して大火事起こさぬように目覚めた生き方が必要なのでしょうが、それが、中々難しいのでしょうし、わかっちゃいるけど、、となるのでしょう。しかし、分かるだけいいのかもしれませんね。そんなに自分をコントロールなどはできませんから。止められないは、人間の本質でしょう。
「善人なおもって往生を遂ぐいわんや悪人をや」法然。いかに凡夫の身を自覚して愚かさを知り、だからこそ救われる身と気づかねばならないのでしょうし、そういうものこそ救われるのが阿弥陀様の本願なのです。罪深きものは罪深きものとして念仏する、これこそが本願念仏ということです。ありがたいことです。

2016年9月20日