浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第49回 人がヒトとして

人がヒトとしてある限りその行動や思考はヒトの生態行動でしかないのでしょう。芸術、哲学や宗教もそうでしょう。ヒトがこういう形をして生命を全うする事は自然界の一部あり、個別の行動はヒトの括りとしてそれが全てです。何故、鳥は鳥で、草は草なのか。全ての生体の根源は神が創造したのでしょうか。それは、どうも安易です。今後も淘汰され変わっていくでしょうし、地球すら危ない。宇宙規模の話です。今でも科学者は探求していますが解明されたとしてもヒトの手の内です。未知に妄想する事もヒトですから、微かな逃げ道はやはり有りのままにヒトは人であることに器を置かねばなりません。だからと言って人の英知を信じて展開することはヒトの範疇ですから、ここはバランス良く人とヒトである事を感じていなければならないでしょう。
ここを踏まえて人間学上(大きな意味でのヒューマニズム)、ヒトが人として人間社会に有りのままに生活する事を現実としてどうすればそのバランス感覚を維持できるのでしょうか。自分がヒトである限り、自分が他でない限り、他者に対して慈しむ事だろうと考えます。どういう事かというと、ヒトである人として自分が存在する事が当たり前としてもそれは他(自然界)によって存在せしめられているからです。他者への慈しみは自を育む事と思います。
それによって先のバランスをとる事ができ尚且つ過剰な自欲から遠のいて広く自然の摂理を体得した居場所をつくり穏やかさを維持できるものだろうと思います。
AIが核ボタンを操作して人間が滅亡の危機になって初めて人がヒトである事に回帰するのでしょうか。
人がヒトとして発見した目覚めとはこういうものだろうと考えます。仏教にはそういう側面があるかもしれません。

2016年8月9日