浄土宗 伝授山 長応院


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第122回「中道を生きる」

お彼岸の時期なりますとこの「中道(ちゅうどう)」の話が出てきます。中道とは、簡単に言えば「中庸な生き方、分別にこだわらない生き方」となりましょう。

仏教が目指すところにはこの世が縁起(関係性を持って)で成り立っていることを体感することであります。しかしながら、貪瞋痴や執着心、とらわれの心によって善悪の分別をつけて生活をしがちな私たちはどうも完璧ではありません。「欲しい」「悔しい」「思うようにならず苦しい」など。そこで年に春と秋の2回、お日様が真西に沈む春分の日、秋分の日を中心に挟んだ一週間を仏道の見直し週間として定めた日本独自の習慣です。

デジタル化の今日、0と1で明暗化し、一見すると効率の良い便利な社会にはなりましたが、反面その分別がつかない間に苦慮することがあります。本来、人の心はそう画一的ではありません。分別のこだわりが苦を生む原因になっております。岐路に立った時、選んだ道が上手くいかないと後悔しますが、他の選択をしたところでそれはそれなりの苦労が待っているでしょう。どちらに進んでもそこに生きる道があります。それが宿命と心に感じて自然体に身をまかす方が生きがいに通ずるものがありましょう。0と1の中間の階調を味わうと言った気持ちが大切であります。無分別智という仏教の言葉がありますが、分別以前にある智慧をしっかり持ちなさい、ということです。

丁度、春分、秋分の日は真西に陽が沈み昼夜が半分になるようにとらわれなく、調和のとれた欲の傾かない生き方を実践することが仏道のあり方であります。西には極楽浄土があると説きますように、阿弥陀仏の慈悲を受け取りながら観想し、お釈迦様の教えに押されながら真っ直ぐ阿弥陀様の浄土へのゴールに向けてお念仏をお称えし目指したいものです。

2023年9月5日