浄土宗 伝授山 長応院


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第121回「命のつながり」

自分が今ここに在るという存在の不思議は誰しもがふと思う時があるでしょう。自我のわがままに身を任せている日常には問題ないかと思いますが、根元を考えるとはっきりと思考が及びません。誰とて自分の意思でこの世に出現したわけではありませんし、現実の光景に疑問も持たないで暮らしていることでしょう。

お釈迦さまが説いた「縁起」は、「全ては関係を持って成り立っている」ということです。ということは自分の存在も関係性を持って在る、ということです。それは、両親がいてそれぞれにまた両親がいてと、いわゆる多くの先祖の繋がりの結果として今の自分が在るわけです。逆を言えば、どこかでその関係がないとしたら今の自分は存在しないことになります。と言ってそこに意味や目的はありません。縁によって繋がり続けているだけのことです。とはいえ、人間は渇愛や感情があります。その縁にはそうしたものを含めても大きな意味があると感じているかも知れません。自然摂理の冷たさと人間の情の温もりの温度差があえて人間性を表しているかのようです。

その上で数で考えてみると、自分を基点に両親(一世代前)は2人、祖父母はそれぞれですので二世代前は4人、曾祖父母は8人、というように枝分かれして命のピラミッドを作ります。十世代遡ると1,024人、二十世代遡ると1,048,576人、三十世代遡るとなんと10億73,741,824人の自分と直結した先祖がいるわけです。その一点に自分が命を授かって今日在るのです。

これをだからどうなんだ、と言えばそれまでですが、縁(因果)の働きに気づきを傾けると授かった我が命の有り難さが見えてくるような気がします。ゆえに目の前の花を美しいと思ったり、美味しいものを頂いたり、友人と楽しい時間を過ごしたりとできますし、大きく思うと四苦八苦をも頂いてお浄土に行けることができるのです。唯一無二の出会いです。

こうして考えると自分の意思というものは儚いかと思います。とかく身勝手になりやすい私たちは、こうした繋がりの上にあって宿命のように存在している限り、その振る舞いは醜さを伴います。それよりも受け身にあって感謝の生き方が見合いそうです。いかがでしょうか。南無阿弥陀仏

2023年9月4日