浄土宗 伝授山 長応院


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第120回「効率と生産性に過信して失うもの/住職雑感」

コロナ禍で行動が立ち往生しているつかの間に社会はネット文化が急速に発展しました。スマホ片手にある意味何でも出来るかのような社会になりました。ウーバーイーツなどコロナで飲食店が停滞している中で大いに利用されました。学校の授業も会社の会議もズームで非対面で行われるようになりました。新聞、テレビ、情報雑誌などもインターネットに代わって昔から比べたら需要が落ち込みました。最近では人工知能(AI)が実用的に進化して人間の働き方も変わりつつあります。大都市にいる必要性がないと移住する方もいます。国政もデジタル庁が誕生しマイナンバーカードの普及も半強制的に推進しています。ハンコ文化にも異議申し立て、SDGsとうたっては書類は紙からデータに変わり、会社も無駄をはぶき、スリム化し効率よく生産性を高めるいわゆるDX戦略が加速しております。コロナ禍が奏してか、デジタル化の加速の波は止まりません。まだ途上ではありますが、悪い事ではないとは思います。こうした便りも郵便代が無くなるでしょうし、各分野の研究にも成果を出しています。
ただし一方、生活面で困った事に人口の高齢化と言いながら、その世代にはどうもその波は不向きでもあるかもしれません。実例に90歳を超える両親にはこの状況が理解できません。PCやスマホの操作や登録、手続きがままならず、一人暮らしのお年寄りや老々介護の夫婦などには、なかなかネットを使って買い物もできません。スタバで注文もままならず。ポイントカードもよく分かっておりません。本来ならば全ての世代に優しい社会になってほしいと思うのでありますが。デジタル社会化には高齢者が足かせになっているというような言論も見受けられますが、酷い話です。政界でも老害扱いされる方もおられるようで引退を迫られる時もあります。昭和時代の話も既に昔話と化しているか、変化のスピードに追いつけないようです。
産業革命以来テクノロジーの進歩によって経済も拡張して富を促し、国を豊かにするという過信が人類は何処へ向かうのか、と何か疑う人々もいるでしょう。特に日本は戦後一夜にして資本民主主義国家に変わり、ある意味では欧米型の経済中心の国づくりの拝金的な価値観に誘導され、今こうして世代格差、分断化されたとも言えましょうか。独自の多世代が幸せになるようなソフト面が不可欠でしょう。
そういう中で常に苦の悩みに応えるべく布施文化コミュニティーとしてお寺は守られてきた経緯があります。いつの時代でも人間が抱える苦しみはあります。その苦を超えて真の幸せ、自由を得るには、という智慧を授けるのが寺の役目です。ですから寺はどこかすると一般社会や経済から外れた場所かもしれませんが、心の居場所として機能してきたと思います。現状苦として習慣のスリム化もありますが。
人間が人間である限りその行動や生き方は大きく変わりません。生老病死などは平等に通る道です。「縁起」「無常」などの教えは自然の理ですから変わることはありません。しかしながら欲がつきものの人間は、さらに上へとかきたてます。そうなると便利、効率、生産性という向きが、先の真の自由、幸せと異なった利己的な向きに変わってしまいがちな事が問題です。心を核とした利他文化を見直す時です。
ここに来て加速主義の果てに何があるのかをもう一度省みていただくときかもしれません。仏教では教えます、時は流れるものではない、全ては心で成り立っている、その心を磨けよ、と。無垢な心身の回帰を求めたいところです。我が身体に。

2023年2月22日