浄土宗 伝授山 長応院


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第118回 雑感「最近の『宗教アレルギー』について思うところ」

昨今、あるカルト教団への不満から安倍元首相を狙撃した事件について話題が「宗教と政治」「宗教不信」へと展開していくにあたり、一言もうせねばと思っています。情報過多で錯綜しすぎているようです。宗教無知が大義を語っているようにも見えます。特に新宗教は時代に迎合し得ないと迫害を受けるものです。浄土宗他鎌倉時代の新興勢は皆そうでした。とは言え人間にとって宗教は生きる上で大切なものです。

事件そのものは、被害者の善悪は別として凶悪であり許されない行為です。加害者の原因がカルト教団に没頭したあまりに家庭崩壊に至った母親の行為から恨みを持って及んだそうですが、逆いえば母親を救いたかったとも思われます。法然が子供の頃、父が目の前で夜討ちにあったが仇討ちの道を断ち出家した話がありますが、何故憎しみが起こるのか、人間の怨憎会苦とどのように向き合うのか、など道理を求める道を選んだ事はこの加害者にも犯行に及ぶ前に考えて欲しかったと思います。

大衆の興味は、安倍元首相の功罪や宗教と政治、カルト宗教の恐ろしさ等へとつながります。安倍政治については皆様の価値観に寄るところでしょう。どの党派も選挙の時だけの民主主義であるように票が欲しいが故に関係作りに余念がありません。
宗教と政治の話は、その昔聖徳太子の仏教理念を主幹とした国造りを推し進めた歴史がありますが、戦後今日では欧米含むグローバルな視野から民主主義・自由主義を語るゆえ政教分離という発想が生まれます。それ故国教が定められず信教の自由をうたうのですが、この「自由」の考え方が仏教の自由とはズレがあります。「意のまま(勝手)」の自由ではなく、自然の道理を受諾する事で得られる自由という解釈が仏教にはあります。「悟り」というものです。この違いが宗教の定義の違いにも出てきます。手に取って実感を喜ぶ自由をうたう宗教と自然の道理に探究心抱きながら真の自由を探る宗教でしょう。後者が仏教であり、時として「自然と人間(生命)の現象学」という地に着いた哲学でもありましょうし、予言、迷信や占いに戸惑う事なく時代に合わせて形を変え習慣に溶け込んでいきます。一部新興宗教系で方便として現世利益を説く宗旨もありますが、本来人間の欲得を鎮めるものです。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などは、神話を軸として人類愛を説きますが、仏教とは些か性格が異なります。ですので、同様に「宗教」と並べる話ではないかもしれません。

日本人が無宗教と口を揃えて表現する背景には、こうした宗教への無知と「洗脳される」という自分にとって不本意な結果に至る恐ろしさを覚えるからでしょうが、さて、その「自分」と言う確固たるものがあるのでしょうか、と疑問を持たざるを得ません。(仏教ではそれを自我と呼び、執着を帯びた自分と、超えた真の自分を分けます)無宗教と言わざるを得ない同調圧力の虚しさが怖いとも思えます。自身を支える杖をしっかりと持つ事は何の恥でもありません。

私は、米国で開教使として5年間、ロスアンゼルスに居ましたが、言語、文化はキリスト教ベースでしたから布教するにあたっては困難が多かった経験があります。でもメンバー(檀家)は、仏教徒であることを誇らしげにしておりました。人種のるつぼと言われる米国では、無宗教者は怪しいと思われたからです。また聖職者(僧侶も)の待遇はその文化の中で特別なものでもありました。仏教国タイでは、喜捨によって僧侶は修行に専念するシステムが当たり前としてあります。(上座仏教なので日本の大乗とは異なりますが)そうなると日本ではどうもその辺が殺伐として見えてきます。昔とも違ってきました。ある意味では、仏教がレリジョンの定義化(宗教の英訳は神との契約という意)しつつ、One of themになってしまった感があります。

こうして考えると、歴史、文化、習慣に安定した宗教はその人のアイデンティティーになる訳ですが、社会にとって異物なものは排除するアイデアがまかり通ると差別、敵視になりますし、相手を認めることを起点として「明るく、正しく、仲良く」という三宝に帰依するという仏教から申せば、他者を騙したり、迷惑をかけたり、無理やり勧誘したり、妙なものを押し付けたりはおかしいでしょう。カルト宗教には少数派ゆえにあらゆる手段をとってきますから要注意です。所詮、確定的な概念を信じる、信仰する事は無理です。

「洗脳される」に注意し過ぎたところで、私たちは先ほど書いた資本主義などの政治主義に洗脳された生活をしております。宗教だけの問題ではありません。理性や経験等による選択があって人生がありましょう。されとて「自分」も定かではない。確かに宗教は心の礎であり拠り所でしょうが、正しく学び、正しく判断されることを望みます。ちなみに「信ずる」「信仰する」は騙されるのではありません。信ずるものは救われる、とも申しますが、ご自身の智慧を磨きながらの結果として現れてくるものだと存じます。
「ありのまま」をどのように受け止め、どのようにそこから安心を覚えるかが、仏教の要心かもしれません。事実を個人がいかに認識し社会と関わり、そしていかに正しく超えていくかでしょう。
今の効率優先社会の中で起きる孤独問題に寺や教会、小コミュニティーなどの存在が改めて必要性を感じます。正しく道理を身につけていく身近な人の輪が減少したゆえに現れた事件だったとも思います。物と心の両輪を正しい智慧で穏やかに回す為の潤滑油として現代のお寺の在り方を考える次第です。 

2022年8月23日