浄土宗 伝授山 長応院


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第117回「メタバース上の宗教」

果たして存在しうるのか?と考えるリアルな場にて想像している状況で既に人間の大義の上に観念的思考が働いている。もしアバターが仮想社会でAIによって生成され自発的行動、生活が営まれているとなると、安息や疲れて休憩、逃げ場など効率の限界に達した時に苦しみを覚えた時に提供できる場が生成されるか、だろう。つまりは、「こころ」という感覚の身体性が感情にのみならず、アルゴリズムによって上手く階調を確保できるかだろう。神は創られようが、仏教のような一見ロジックでも、無駄を要するような非効率な解釈をもする宗教は、ハードルが高いかもしれない。
非効率なアルゴリズムも生成して、縁起のプログラムを配して、中庸性のAI行動が駆使されれば、完璧な仮想空間上の仏教世界ができようものの、さて、リアルなこの環境からの欲でもある。
しかしながら、そうであっても、リアルと仮想空間の往来から学ぶネオ仏教ができる可能性もあろう。そうなると人間の無明さがもっと露呈されて悲観的な性格を持たざるを得ないかもしれない。
リアルな人間世界の仮想ならば、大義がここにあるわけだから、初歩的段階は、欲だけが支配していくかもしれないが、AI生成が自生していくとやがて新しい仏教がやはり活動、行動のツボとして創られるかもしれない。倫理的に。ただし、メタ上、アバターは悟れるかは不明だ。無駄だからかもしれない。
分別に関してはどうだろう。無分別智の心得はメタ上有効か。効率の分配に絶対的幸せや自由を求め出したらどうだろう。つまり、入口をリアルな人間がインプットする目標がそこへ的を作るのならまだしも、プログラミングの時点で曖昧なものがありそうだ。つまり、定義や大義というものである。一過性のなかにそれは、単純に到達しても生成拡張にどのようにリアルな人間世界の成熟した概念が必須であろう。
となれば「縁起」の法則はプログラミングできても、その熟成次第では、とんでもない仏教が出来上がるのではないか。

2022年5月31日