浄土宗 伝授山 長応院


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第116回「物から心へ、心から物へ」(利他と身体)

目の前のリンゴは食べればなくなるし、置いておけば朽ちるでしょう。マイホームを念願に手に入れても経年劣化で朽ちて行くことでしょうし、それまでに自分の人生が終わることもあります。
落合陽一さんが「質量のあるものは壊れる。質量のないものは忘れる。」とお話しされていました。
物と心の相互間は一体であり、どちらかが無ければ「存在」は存在しないでしょう。心の中でリンゴをイメージしてもその詳細は曖昧ですし、質量を感じません。目の前のリンゴを存在せしめるためには、視覚や触覚、味覚などの感覚がないとつかめません。
一方で唯一無二であるそのリンゴは「リンゴ」という言葉によって社会で認識し合うことができます。本来、自分だけのリンゴなのにも関わらず。
全てが唯一無二であるならばその根拠は「自我」でしょう。そうなると自我が存在を存在せしめる核となります。しかし、仏教では「無我」と説きます。
有無同然という釈迦の言葉がありますが、「有るも無いも同じ」であるならば有無を語る支持体である自我も大したことがないようにも取れます。なぜならそこにこだわっても、なんの意味が無いからです。
唯一自分を自分たらしめるのは、他者への働きです。利他行です。相手に託すことでおのずからぼんやりと自分が形作られるのでしょう。
もし、自我を気にするのであれば、あえて他者に尽くすしか無いのかもしれません。
自分らしさ、個性的らの言葉が誘導する自己愛は私にとって最初からないのです。むしろ無意識に無常に細やかに動いている身体の表情が本体を表し、その根底に利他の心が欲得なく働いていることが輝かしくも思われます。
そうした些細にも無常の変化の中に気づきによってもたらす喜びが心と物が調和する美しさの一瞬なのでしょう。それを思えば、自我執着に四苦八苦している時よりも無駄や余裕や偶然の中にこそ大切さが見えてくるように感じます。
最近では、SDGsなどと「地球、人類に優しさ」に向けたスローガンを立ててエネルギー問題、食料問題から人権問題に至るまで論議されていますが、思うに仏教は元々慈愛の精神を貫いてきたと思いますし、日本文化は古来から自然に優しさを持って文化を育んできたと思います。むしろ欧米化の合理性、便利性、機能性に翻弄された現代、日本がお手本を見せてあげるといいなあなどと寺の縁台に座りながら思うのです。
縁起を説く仏教において原因と結果の間に働きがあるからこそ、また変化の中に大切さを思うがこそ、物と心に慈悲のつながりを身体を通して感じるのです。

2021年10月20日