浄土宗 伝授山 長応院


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第115回「私たちは本来無一物」

生を受けて現世に出現した以上衣食住は必須かもしれませんが、自然界の一動物として人だけが人であるように私たちは自我意識の高い動物であります。この意識は普段なかなか思わないかもしれませんが、生まれて死ぬ循環の中では本来無一物なのでしょう。ただし、生き延びるときに不便だからこの衣食住が付いてきます。
言い換えれば、人生、その寿命の中で欲を消化することに追われます。できるだけ思うようになりたいと都合よく生きます。一方仏教では「思うようにはならない」と言い表します。この違いにあらためて仏教における人間の自然観を感じます。生きる死ぬに意味を探しがちですが、所詮意味はないと冷たく仏教は言い放ちます。確かに意味はないのですが、意味や価値を持とうとします。命の尊厳と申しますが、気高さに守られているだけの安心かかもしれません。 自然の摂理を考えたらそれが現実でしょう。しかし仏教はそうは言っても「慈悲」を説きます。思うようにならない世界の中に生きて苦しむ自分は、実は救われる身であるという宿命感です。
一見矛盾に満ちた人生に明かりがあるとすれば、その慈悲の光明に気づき頼るしかないのかもしれません。よく観察しなければならない所以です。

物から外れた場合、心同士の関係性が大切でしょう。気づきあいです。生死に当たっても自立していません。自他の思いの関係が唯一の宝でしょう。
自分が死ねど自分は悲しみません。悲しむのは他者です。他者によって自立しているのです。自分が自分で自立しておりません。そのように考えると、その宝とは大きな他者によって恵まれるのでしょうか。それだけが、無一物以外の何かでしょう。最近つくづく思うのです。

2021年10月1日