浄土宗 伝授山 長応院


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第114回「死の受諾」

仏教は生き方の教えだとよく言いますが、結果的には死を前提としてその死を如何に懐におさめるか、が仏教を支えていると思います。ただその死の解釈が一般的に絶滅的なニュアンスを持つが故に難しくなるのでしょう。

仏教で言い表すものに「涅槃」「往生」「悟り」「遷化」など色々とあります。これは微妙に異なるものの西洋の物体の絶望的死とは大きく違います。つまり精神上の死と物質的な死を分けて考えます。「魂」の扱い方も違います。

また、現世とあの世と言うように、浄土観や輪廻転生と言うように生まれ変わる考え方をします。これは縁起として、過去世、現世、未来世と繋がっていることで、今たまたま現世にいるだけの事と解釈します。自分もたまたま。

あとは、生の欲望からの絶縁と解釈されがちな死とは異なり禁欲的な仏教は生の執着を離れて辿り着くところが死の境界とも考えます。神道では穢れという立場です。

こうして見ると、死から見る生のあり方が見方によって随分と違うものになりましょう。この寺は浄土宗ですから、生を「極楽往生できる身を頂き喜びの中の喜びなり」と解釈し死を「往生の門出」という立場です。

もう一つの見方として、やや哲学的ですが、仏教では「唯心論」の展開から自他同一として自己の物体が滅してもいつも他者の心に存在があるように生き続ける、とも言えるわけです。また、加えて言うならば、その現象も無常ですから、結局恒久的なものは無い、いわゆる「空」であり所詮「無」であるとも解釈し「生死」の問題を大きな問題としない向きもあります。

心を中心としてこの現象をみるならば浄土教の物語に寄せてみるのも安心を持つに一理あると私は思います。

2021年4月11日