浄土宗 伝授山 長応院


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第113回「愚鈍の身になって」

法然上人の遺言でもあります「一枚起請文」(いちまいきしょうもん)の中に出てくる言葉に「愚鈍の身になって、智者の振る舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」とあります。愚鈍の身になって、とは一体どういう意味があるのでしょうか?
今年は、コロナ怖いで一年が過ぎようとしておりますが、この機会に皆様も色々と立ち止まって生きること死に行くこと含め、身の回りの問題を見つめられたことでしょう。しては、自分が放漫だった事、身勝手だった事、又は周りに迷惑をかけていたのではないか等、気づかれた人も多いと思います。
身勝手な私、都合の良いことばかり選んでいたのではないかと思われた方は素晴らしいと思いますが、一方で社会の中ではこの時ぞばかりに悪業を働く者もいます。人は本来仏性を持っていますから、お念仏さえ申せば善悪の凡夫を一切救うというのが阿弥陀様です、とは言えですね。
いずれにしてもこうして気づけどどこまで気づくのかというところです。道理に暗い私たちは、この世の摂理(縁起無常)が中々心身に深く染み込んでこないのが実情でしょう。これが、愚鈍の身なのです。知識や知恵だけでは片付けられないのがお悟りです。
法然上人は、この事を山(比叡山)を降りてつくづく思ったのでした。仏教は頭で理解するものではない、完璧な悟りを求めるものでもない、自分の愚かさをいかに知り、弥陀の本願(もし私(法蔵菩薩)が仏となったならば、わが極楽浄土に往生したいと願い、南無阿弥陀仏とお念仏を称えた全ての者を必ず極楽浄土へ往生させよう。もし一人でも往生できない者がいたならば私は阿弥陀仏とはならない。というお誓い。)にすがって無事往生できるならばこの上ない喜びだ、と示したのです。
確かにこうして心を一心に傾けば思いわずらうことはありませんね。お念仏で往生できるのならば一切の心配はいらないという事です。そしてこの世で安心(あんじん)を受ける事ができるのです。
先の「一枚起請文」中に「疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには別のしさい候わず」(確信して念仏をとなえる以外に何もございません)とあります。
と言いながらも、実際には確信できにくいのでしょう。疑いをも仕方がない、なぜなら我々凡夫であり、愚鈍ですからね。愚鈍を愚鈍と思わないも然り、それらも含めて「お念仏」が大事であると法然上人は申しておられるのです。

2020年11月24日