浄土宗 伝授山 長応院


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第110回「新型コロナ禍から見えてくること」

現在、新型コロナに右往左往し新薬、ワクチンができるまで安心できない情勢が続いております。未知のウィルスですから不安です。とは言え生死の要因は同等に他にもたくさんあります。本来コロナだけが問題ではないはずです。コロナの感染に怯えているのか、自身の執着に怯えているのかわからなくなります。
人類がウィルスと戦うことは、共にその起源が同じであるならば昔から共存してきたのでしょうが、スペイン風邪やペストを例に大きな流行や災害をくぐり抜けてきた命を私たちは今頂いているわけです。しかしとりわけ近年でここまで自粛、ロックダウン、休業要請、生活様式の変更などを経験するのは初めてに近いものでしょう。近いもので福島原発の事故災害では、放射能という不可視なものとの戦った事が記憶に新しいかもしれません。
歴史もそうなのですが、今回もメディア情報、報道の仕方、煽る風潮の亡霊から、つまり情報から創り出す恐怖自体がモンスター化しているようで、時にこの状況は幻想のようにも感じます。そして個々の勝手な概念、観念、理解、分析が自ずからコロナモンスターを作ることになります。勿論、今回の感染症は未知で得体が知れず、これからの研究が待たれるところですが、実感が伴わない事実があり、いわゆる風評、噂を生み出し怯えます。
これを思う時、これまでの人類の歴史観はこういったことを底辺に捉えて編集されてきている、ある意味では事実は存在しないのだろうし、事実は個人で認識されるものであり、虚像にすぎないのかもしれません。仏教で言う実体は無いという理解と同類です。世界の歴史も都合良く作られます。日韓の問題もそうですし、先の米国の暴動もコロンブス像が撤去されるなど、歴史の事実は流動的です。これからの世界勢力図も時に応じた認識もそうして変わる事でしょう。
というならば、その事実の理解編集能力を智慧で高めるか、崇高な慈悲に乞うしかないのでは、と思う時があります。
現実今私たち凡夫は、時の情勢に右往左往するだけかもしれません。いきなり新しい生活様式に慣れろとは言うものの高齢者には困難でしょう。そこにはそれでまた世代格差が生まれます。若者が、年寄りが、と。相互の優しいつながりが重要になるでしょう。若者がお年寄りから学ぶ事は大きいです。スムーズな行政を、と言いながらもこの折にも我々凡夫は凡夫です。
思うに、この国が向かう先に何があるのか考えてしまいます。コロナ以前に話題になった、働き方改革、東京一極集中問題、地方創生、メディアのあり方などはこれを機会に加速するでしょうし、いまの日本がグローバル世界の中でどのように動いているのか再考する機会でしょう。高齢社会、福祉も大きな問題です。
「昭和おじさん」と老害の様に揶揄される事も多くなりましたが、同時に「アフターインターネット、アフターコロナ」と次世代の語りも多くなりました。視点の転換期でもあります。昭和ヒエラルキーを改革しデジタルネイティブの時代にスマートな政治経済をと、この折に語る事は未来的で悪い話ではないと思いますが、モノ社会の消去と身体性の欠如は大きな心配です。ただ、この際よく考えたら色々再考すべき慣習(お寺に関しては、家制度、戸籍問題、夫婦別姓問題、性別問題、墓継承問題などあります)、制度や法律も出てきます。アップデートも必要です。ただし、私たちは、これ迄の素晴らしい文化の学びをしっかりと礎にして、この国なりの良き感性(身体的霊性)を受け継いで大いに自信を持ってコロナ禍を吹き飛ばしたい気持ちであります。
しかしながら今は今、目前の問題に正しく対処せねばいけないでしょう。でも三世は繋がっています。過去現在を精査しながら負けずと新しい未来を見るように心がけてこの今を対処したいと思います。単なる生産性や効率性優先でなく過去の慢心を反省に夢ある柔軟な共生社会を語りたいものです。何か気高き智慧と慈悲をこのコロナ禍を通して根本的な問題を教えてくれているようです。四苦八苦(生老病死)を元に語る仏教が何故必要か、是非未来を語りましょう。心と体で生活を成立している我が身を。

2020年7月15日