浄土宗 伝授山 長応院


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第109回「他者へ生きる」

自他共生の話は何度もお話ししていますが、なかなか世の風潮が逆行している様なので繰り返しお話しします。
自分が生きている、という解釈ではなく、自分は他者によって生かされているという事なのです。これは、人間、他の生物含め群として共生の社会にあって関係を保ちながら命の歴史を育んでいるのです。
他者へ、と言うとまず自分があってその上で他者、と言う風に考えがちですが、私の言う思うところはそうではないのです。自分という不確定なものは他者によって確定されるという事なのです。そういう意味で、他者へ、なのです。
多くの人は、自分が在って当たり前だと勘違いされるでしょう。しかし、よく考えてください、自分を示す物は何提示できないでしょう。姿形はあっても自分の本体は自分で表せないでしょう。だから、他者によって形づけられるのです。
自我というものは対する執着によって作られています。どこかで、自分は?と繰り返し何となくボンヤリしたものによって浮遊しています。丁度、自分が撮られた写真を見てエッ、と思う様な、自分声を録音されて聴くその音の様な。他者によって形は認識されるのです。そこには、いやいやそれはおかしいと思う自分と他者の関係自体(現象)でしかないのです。関係があってこそ自他同一のある物ができるのです。それを超えていくと、結局、第三の大きな他者が現れるのです。それが我々の言う阿弥陀仏だったり釈迦の存在だったりするのです。
コロナ禍の中、自分を喪失しそうな時にはここをしっかり心得てください。そしてその第三の他者にしっかり頼ればいいのだと思うのです。すれば、自身は復元されるでしょう。
これを忘れがちな我らですから念仏申すのであります。


2020年6月22日