浄土宗 伝授山 長応院


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第108回「ソーシャルディスタンス/信頼と疑念」

釈尊の「思う様にはならない」と申すように、災害、厄難は突如としてやってくるものです。心の何処かに「思うように生きたい」と日々暮らしている私たちにとって想定外となります。楽しかったあの頃に戻りたい、平常に戻りたい、と願えど厄介も含めて平常なのでしょうが。「ありのままで」と良く私も言いますが、安穏とした言葉の響きを持つものの、実は厳しい現実もそれはそれで自然の内と心得てありのままに素直に受け止めていくという意味で申すのです。
今回の新型コロナの問題で、不可解に思う言葉があります。「ソーシャルディスタンス」と言う言葉です。物理的に飛沫感染を防ぐために人と人の間の距離を保つと言うのでしょうが、基本的に各個人の行動からしてどこからウイルスを持ってくるからわかりませんからやむを得ません。それでは、家族内ではどうでしょう。友人同士ではどうでしょう。家の中、車の中などではどうでしょう。絆や信頼があるから大丈夫とは、本来言えないのでしょうが、実際のところは信頼が上回って「私たちだけは大丈夫」「私は大丈夫」となる訳です。仲良しの友達を車に同乗させるも「信頼」が上回って本来のソーシャルディスタンスは壊れます。各々のその意味合いが、定義がしっかり理解していればそう言うギクシャク感はないのですが、どうも世の中では個々曖昧になっているようです。そこそこ抗体作ればと言う勝手の一方、高齢者への心配もあります。過大な情報依存もあって、科学的根拠から離れて理解には個人差、世代差があります。
人間は、それほど物理的に計って生活をしていません。情とか関わり合いで生きています。幼子には抱きしめてやり、老いたる者へは優しく言葉がけをしたりと、触れ合いで社会をつくっています。「思いやりの距離」と訳すも距離が物理的なものか心情の問題なのか判断が難しく感じます。
さて、人間同士の心の尊厳を保ちつつも最もその距離を離してはいけないのが、仏様の存在です。今のその生命を宿し、現世を去っていった諸々の仏様は、心の拠り所として唯一私たちを救わんとして光明を放ち続けているのです。ふと気づいて手を合わせ念仏すれば、「大丈夫だよ!」と安心させてくれるのです。そこにはマスクも透明なビニールの壁も距離もありません。どうぞ、このお盆には仏様をお迎えし丁寧に供養申し上げて下さいませ。弥陀のもとしっかり頼って安心(あんじん)を。 


2020年6月10日