浄土宗 伝授山 長応院


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第107回「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」法然上人

昨今の新型コロナウィルス騒動で多くの人が不安を抱いております。人類誕生から我々は都度ウィルスとの戦いを経験しご先祖様はそうした難をくぐり抜け我が身が今あるのです。命の問題ですから当然怖がるのですが、ただし近代医学、化学の発展の中で正しく怖がる態度でいなくてはなりません。
見えないものとの戦いはことに今過度なテレビ、インターネット情報や噂に翻弄されお化けを怖がるのと似ています。ここに人間の愚かさ、鬼の形相が現れてきます。トイレットペーパー不足、買いだめ、自粛生活のストレスからの事件事故など。この騒動で稼ぎが減り酒飲んでの夫婦喧嘩でカッとなって相手を殴り殺した事件など本末転倒です。
体の問題と共に心が崩壊しては命のリレーでタスキを渡された我が身、ご先祖に申し訳ありません。第一、不安の要因は苦からくるのですから平常時でも数々あるのです。
全ては心より成り立つというのが仏教の考え方です。心次第で見方も変わります。コロナ鬱などと言われていますが、今更この騒動だけに苦を抱いているわけではありません。自分がこの世に誕生して以来色々な苦と共にしてきているのです。ですから今のこの件だけに大きな妄想を抱かず、本来の苦海に我ある事を自覚して弥陀の本願に往生することの喜びを再認識し、安心を懐におさめたいものです。心静かにお念仏を申されて下さい。念仏は現世利益ではありませんが、心落ち着ける修行の一つです。その上で、うつらず、うつさず、こまめな手洗いうがいをして正しく気をつけましょう。(知人の化学者と精神科医から冷静なデータを伺いましたがこれがまた噂になるので控えますが、結論は精神的な免疫力の維持が大切だと言われています。)

命の尊厳を軽い調子であたかも前提で言う方がおられますが、私は偏屈なのか、大切とは思えどもっと大切なものがあるように思っています。超個の人、自我執着を超える宿命を持つ人、に思いを抱くのです。
昨日私が慕っていた禅寺の住職が感染して遷化されました。「私は生きている限り坐禅をするが死ぬ時は阿弥陀さんだなあ、生きる死ぬは大した話じゃないよ。」とよく申されていました。南無阿弥陀仏。

先の震災、原発事故の怖さ、戦時の怖さはどうですか。普通に戻ってしまいましたか。自分だけには降りかかってこないでくれ、とは勝手。命と社会とつながりを考える良い機会でもあります。そして自己と解脱。しかしお念仏にはそうした全ての難題が集約されていると存じます。どうぞ皆様、心乱れることなく肩の力を少しほぐしてご自愛ください。そして早く収束されるようにお祈りします。

至心合掌


2020年4月14日