浄土宗 伝授山 長応院


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第106回 見えないものとの戦い

私たちは通常、物が見えている安心感に包まれながら生活をしています。物が見えることは自分の存在を対極して確実にしてくれるからでしょう。その確実性は心をほぐし、生きている安心を導きます。しかし、このことが当たり前の道理かどうか考える時があります。物への執着は、人間の欲が認めるものであり、対すればその欲体が滅する事つまり死を恐れます。ましてやその先が地続きのように繋がっていることなど考えも及ばないでしょう。全てを受け入れ自然法爾と生死の分別すらなすがままに心穏やかにこの命を受諾することはなかなか難しいようです。自我執着が戦慄する社会を覚者はどのように見ているでしょうか。
一見、見えないものは、自分の存在確認が取れずに不安に貶めるでしょうが、一方で元々自分ほど不確定なものはありません。真理と正しさは異なります。正しさはその自分が決めるものでしょうが、真理は自分が決めるものではありません。もし自分が不確定ならば、正しらしさに翻弄されているだけです。
つまり、物は自分が存在しなければ見えず、その存在認識を間違えると執着によって見えないことが大きな不安材料となるわけで、その先に絶対的な死を想定してしまうのです。
大きな安心を得るにはそうした構図を一度省みて抜け出すことでしょう。この命と自己は表裏一体ですが、本来生命体の循環の一部として縁を持って存在しているだけです。その上に立って欲に足掻くのは、人間の英知どころか単なる愚鈍の身でしょう。そうであるならば、少しは座禅瞑想し念仏唱え智慧と慈悲に受け難き人身を得た感謝へ導き出して菩提心に据えることが本当の意味で自己を語る事かもしれません。苦を素直に受け止めていく静寂な心を養い仏に供えていく精進、つまり生きるを「供養」と言うのでしょう。
見えなくて当たり前、元々何も見えていないのですから。本当のものは見えづらいのです。不安に思うことはありません。そのことよりもそうした精進にひたむきに心を構える事が我々の与えられた仕事、縁に頂き縁に返す宿命でしょう。

けだし命の受諾とはそう言うものだと思うのです。


2020年2月25日