浄土宗 伝授山 長応院


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第105回 信仰というもの

誰も一日で信仰は生まれるものではありません。ひらめきがあったにしても。皆さんはどうしても「信仰」という言葉の響きに何か不可解なものに傾倒して祈りや願いを捧げる行為、又は「洗脳された」(心を奪われる脅威)などと揶揄されるかとも思われます。現に資本主義というイデオロギーに洗脳されているではありませんか。といっても一方では「自分」ほど不確定なものもありません。
私は思うに「信仰」というものは、必然と真の道理、摂理に感覚を覚え、心を奪われるのではなく、しかも一方的なものでもなく、欲得の無い道理にかなった府の落ちどころに安心を覚えるものだと思います。この欲得の無い、というのが難しいところで、どうも自分の利益(祈れば〜〜できる、というような)に焦点を合わせてしまいがちです。菩提心(ぼだいしん)、発心(ほっしん)は縁が取り持つものでもありましょうが、真に向けた純心な「ありのまま」の無垢が開かせるのだと思います。そしてそれを継続するだけの感性の頼りに準ずるだけでおのずから信仰へ向かわせるのだと思います。おのずから有難きを受諾することでしょう。自分の欲と自然の道理の矛盾を考えてみてくださればお分かりかもしれません。
末法思想(仏の教えが通らなくなった時代)が浄土教を広がったという歴史観がありますが、言ってみればいつも末法の世の中でしょう。愚かさに気づかない世、思うようになるとばかりに生活する向きの世に、生かされている感謝の感覚は育ちにくいものです。正見正思惟(正きに見、正き考えを持つ)の姿勢を活かして道理からずれを感じることに真の自身を見出し、その愚かさに気づけば自らから頼り、信仰心が芽生えることと思います。
信仰といってもその対象物が、という話になりますが、例えどのような宗教でも性格が異なれど構造は同じで、偉人の気づきは我々凡夫にはなかなか分かりません。そのことよりも釈尊の話にある「自灯明」(自らをともし火とせよ)を頼りとして「法灯明」(道理、法を拠り所とせよ)を受けていく心構えが自然と気がつけば信仰心が宿っていることでしょう。
気をつけなければいけないのが、自分の欲得で無理な信仰を考えてはいけないということです。信仰は有るものを信仰するものではなく、無と縁から育てていくものでしょう。
浄土真宗でよく話される「妙好人才市」(念仏の篤き信仰を保ったひと)ほどにも至らぬ私でも日々気づきと目覚めに生かされていることが何なのか不思議と思うときがあります。いかがでしょうか、皆様。


2020年1月12日