浄土宗 伝授山 長応院


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第103回 仏のカタチ

仏像も位牌も墓もモノであります。お経、極楽浄土も念仏さえもカタチとしてモノです。儀式儀礼も。そもそも仏教は縁起を説き実体は無いと言い、空(くう)や無という解釈をもたらし、心の現象としてモノやカタチをとらえます。
霊という何とも怪しげにカタチ、モノでないふわふわとした変容する何かは、何かに姿を現します。それがモノ、カタチです。お釈迦様は、悟ったと言いますが、誰が確認したのでしょうか。お経はあくまで弟子たちが書き残したものです。こう聞いた、ああ聞いたのように。結局のところ、言葉でも言い表せない真理は体験的に学ぶ感覚の上に腑に落ちるものなのかもしれません。だとすれば、実体などないという真理は、ましてや一般人には遠い世界でありましょう。ここで、方便の如く必要なものは、そうモノ、カタチなのでしょう。仏教は一神教でもなく偶像崇拝でも唯物主義でもありませんが、教えはモノ、カタチに姿を変えて我々は心で体験的に学び取ることが大切な訳です。無であるからこそ有が必要なのです。
ですから、例にお墓参りもただ亡者に思いを寄せるだけでなく、そこから真理を学び得るという心構えが大切でありましょう。特に浄土宗徒ならば加えて願往生とお念仏申すがその中核になるわけです。


2019年12月23日