浄土宗 伝授山 長応院


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第101回 ファンタジーの中に生きる

ある意味ではそういう事だと私は思うのです。その言葉にはいささか曖昧な含みはありますが、実体はない、虚界の現象にこの空蝉をあらわにしている状況は、確たる自己も無いままにふわりと命を維持して生活をしている状態で、かりそめに頂いている生命の間の出来事でもあるのす。自己の欲も含め大した事ないのであれば、少々明るく、気楽にもファンタジーの中に生きるという認識もおかしくないと思います。現実が苦であると思い窮屈に生きるより、慈悲の光の下に穏やかに安心して過ごす方がいいではないですか。実際、現実は虚構です。ならば、道理をわきまえてファンタジーに身と心をありのままに投げ出してみませんか。短絡的な諦め乃至快楽主義ではありません。
釈迦は一切皆苦という前提があり仏教の骨格を作りますが、苦が故の楽です。苦が担保になって楽という方向が現れるのです。極楽浄土とはその極みでしょう。安心して往生できるのです。行き行く先があるのですから。浄土教を「我々は既に救われている」とは宗旨の手前申し上げられないところはあるのですが、デリケートな話、救われる身を既に宿命的に持っているわけで、あとは弥陀に振り向くか否かだけのことでありましょう。そこを担保にしておけばもう安心なのであります。あとはそう、ファンタジーに生きることでおのずから有り難さが現れると思います。我と言う不思議な且つ宿命的な存在。救われる存在として現れているのでしょう。時に弥陀仏に声をかけてみたらいかがでしょう。
世はフィクションでもノンフィクションでもないでしょう。無分別な気づきの認識の中に生きる友は又は師は正に弥陀仏なのだと思います。


2019年12月1日