浄土宗 伝授山 長応院


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第100回 縁の働き

仏教の根本は毎度申しますが「縁起」です。又は「因縁生起」とも言います。簡単に言うと、縁の働きに寄って原因と結果がいつも生じて、それは時間の隙間なく移り変わっているという事で、この世の現れはそうした現象で、固定的な実体を持たないというものです。このことが派生して「空」や「無」至って「浄土」という話に展開してゆきます。簡単なようで難しい話ですし、すぐに分かるということであれば、仏教もここまで長く継続していませんし、単なる哲学で終わってしまいます。
何故に理論が信仰になっているのかそこが問題です。「因果」の流れはデジタルのように1に1が足されて2の結果が生まれるだけでなく、1と1の間にも隙間なく因果があるということは、ややアナログ的かもしれません。川の流れのように。ただし、その因果の間に常に「働き」があるという事が重要です。
因果というとすぐに自分の欲に引き寄せて、病―祈るそして治る、という単純なものではなく、少々文学的な表現になりますが、因果に大きな慈悲と智慧がいつも接着剤のように注がれているという事です。ですから、結果がどうでもそれを欲なく受け止めていく事が大切なのです。中国の老師が曰く、人生はサイコロで道を決めなさい、という言葉には、右に進めば右なりの人生、左に進めは左の人生、大切なのは受け止め方の問題だという事です。どちらにせよ、因果は起こる話ですから。ということは、欲は因果に相性が良くないのかもしれません。
念仏他力本願の元にはそのような考え方が根底にあります。つまり、自分欲の因果ではなく、もたされた縁起の流れに身を任せ、流れるまま、ありのままで有り難く分別なく受け止める、この事こそが大切な生き方になると思います。
慈悲と智慧の働きにもたらされている因果の流れにありのままに受け入れていくことが信仰ということになりましょうし、その気づきが感謝に変われば正に深心深き信心となるでしょう。
光―光は生命を与えモノを与えます。この下に私たちの執着、欲が蔓延している状況はどのようなものでしょうか。如来の光明とすれば、全ては感謝の対象となりましょう。縁の働きとはそのような如来の光明とも言えますし、それを受けている有り難さへの大きな安心の気づきに祈ることが大切であります。
念仏とは、そのような何処かで気づかずとも救われている中に愚者の身を安心(あんじん)に導いてくださる感謝でもありましょう。故に「ありのまま」という言葉が落ち着きを持つのだと思います。


2019年11月5日